義母は固形物を噛んで飲み込むのが難しくなってきました。のどに詰まらせて危うく一大事になりかけたことも度々起こるようになり、ミキサーですり潰したものを食べるようになりました。 雪深いチロル州では、車を出すには危ない日が続くこともあるので、私たちはいつも保存食をストックしていて、その棚には市販されている月齢12ヶ月児用の離乳食の瓶がいくつも置かれるようになりました。 「ママはついに、12ヶ月になった…。」 時間はどんどん逆戻りして、義母は乳児へと戻っていきます。 昨日までできたことが、今日はできない。 少しずつ、少しずつ、弱っていく。 月齢12ヶ月。 その頃の息子は毎日少しずついろんなことができるようになって「えーっ?!Uちゃんが立った!」とか「歩いた!ねぇ、今の、見た?!」「すごい!食べられた!」とか、日々の成長がうれしかったものだけど、義母はそれと逆行して時間が進んで行きます。 半年くらい前までは腕の力も、足の力もかろうじてまだあって、自分の力を試したいのか運動したいのか、目を離すと自分1人だけで車いすに乗ろうとすることもありました。でもその時すでに筋力はギリギリでフラフラで危なかったことも。だから目が離せなかったのだけど、義母はもう立つことができなくなって、いつもおとなしく寝ているようになりました。時々、枕の位置を直してあげたり、義父を呼んだり、トイレに連れて行ってあげたり、いろいろ雑用をします。でも基本的に目が離せるようになったことが、私にはなんだか寂しいです。 それでも、まだ自分の力で口から食べ物を食べられることが嬉しいです。離乳食だろうとなんだろうと、それが幸せだったと思う日が来ることを、私は知っているから。私の実父が口で食べられなくなって一気に衰弱していったのを見ていたから。 立てなくなったり噛めなくなったり、そういうハッキリとした事実だけじゃなく、毎日、義母に会う度に、少しだけ何かが違ってる感覚があって、私は胸騒ぎがします。 ダンナくんも、義父も、義母本人さえも、それはわかっているはずなのに、誰も心が乱れることもなく、毎日が過ぎていきます。 変わらないことが私にはよくわからなくて、ダンナくんに聞きました。 「ママは何かまた少し、弱くなったよね? 弱っていくスピードが早くなった気がしない?」 「はい。ボクも知っています。」 ダンナくんは悲しそうな、遠い過去を話すような顔で 静かにそう言いました。 「どうしてダンナくんは不安にならないの?」 「もう、知っているからです。不安になっても何も変わりません。」 「でも、みんなも、ママも、悲しいよね?」 「もちろん!ママだって、悲しいですよ。」 「どうしてママは、笑っていられるんだろう?」 「ママは、自分の結末をもう知っています。でも絶望していないんです。」 たぶん、奇跡を期待しているわけじゃない。
治療方法の発見を、義母は最後まで希望を持つ、というのでもない。 本人もまわりも、結末はもう知っている。 それでも嘆き悲しんだり、不運を呪ったり、 誰かを羨んだりすることもない。 そんな人、世の中にいるんだろうか…? 義母に裏表や建前はまったく感じられないので 増々、不思議に思う。 もしも自分自身がそうなった時、 「不運を嘆くよりも、楽しい時間を過ごすほうが絶対いい。」などと 頭では理解はできても、果たして本当にそんなことができるんだろうか…? 私は義母のお世話をしながら、 大切なことを学ばせてもらっている気がする。 彼女の人生に関われて、本当によかった。
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AuthorAlpenHausfrau Heidi ■免責事項 当サイトに掲載された記事情報及び意見や見解は、個人の感想レベルであり、その内容について何ら保証しません。情報の間違いなどに対して一切の責任を負いませんのでご了承下さい。 Archives
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