退院してきてから 私は詳しく知ったのですが、ダンナくんの病気は大変でした。 それは帰宅後も。 痛みが半端なかったらしくて、唸ってました。 消毒のために患部を見た私は 比喩ではなく、思わず気分が悪くなって 何度も座り込んでしまいました。 新米ナース、新米刑事の気持ちが ほんのちょっとだけわかった気持ちがしました。 もっと悪くなる前に偶然わかって、 手術できてよかったのだけど、 神様、どうして。 私たちには義母の死を悲しみ続ける余裕さえ あまり与えられませんでした。 素人目から見ると、 まだ入院していたほうがいいのでは…というレベル。 それでも自宅療養の始まりです。 哀れなダンナくんは 寝返りを打つのも叫び声をあげていて、 一日の摂取量のリミットまで痛み止めを飲んで、 それでも激痛に耐えきれず、涙を流していました。 ダンナくんは、しばらく働くことができなくなりました。 彼は今フリーランスのような雇用なので 有給休暇や傷病手当などはなく、無給になるはずで、 もしかすると職までも失うかもしれないと考えたら、目眩がしました。 どうしよう。 私が一家を支えられるような収入を見つけなくては…。 あぁ、どんな道があるというのか。 私が悶々と暗い顔で考えていたら ダンナくんは痛みをこらえて 「大丈夫です。考えすぎないで下さい。」と言いました。 不況で各国の若者が失業に喘ぐ中、 移民、外国人のダンナくんが職を得るという今までの苦労、 そしてこれからの雲行きを思って 「どうして大変なことが、次々起こるんだろう?」 思わずそう聞いたら 「もっと幸せになるために。」 ダンナくんは微笑んで そう言いました。 体に穴ぼこ開けられてる人、 人間デミタスカップに温かい言葉をかけられて 涙が出てしまいました。 そうだった、幸せになるためだった。 「体が治ったら、泳ぎを教えてあげたいんです。」 治ったら、3人で湖に行こう、ハイキングに行こう、と お互い目に涙を浮かべながら手をつないで、ほほえみました。 介護生活が終わって、 看護生活、スタートです。 【お知らせ】
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2 コメント
いつも洗濯物を入れているカゴが、 部屋で倒れていました。 もぞもぞ。 もぞもぞ。 うちの坊ちゃん入り! ∑(@Д@; ヽ(〃'∇'〃)ノきゃきゃきゃ!♪ ごろごろごろごろごー〜〜 気がついたらうちのでんでん虫が
部屋中、ごろんごろん転がっていました。 見えないようにカゴに中にうまく隠れて、 カゴがびょんびょん飛び跳ねてたりして 昔のディズニーアニメみたいでかわいかったです。 すごく楽しそうでした。 ……これは昨年撮った写真なのですが、 やっとアップできました。(笑) 最近写真は撮ってませんが、 息子と私は今日も元気に遊びました☆ ヽ(〃'∇'〃)ノヽ(●´∀`●)ノ ダンナくんの退院も、もうすぐです。 ダンナくんはケガをしました。 以前から気になっていた部分が、ふとしたキッカケで急に悪化したのです。 大きい病院に行かなくては。 でもオーストリアの病院だときっと保険がきかないよね。 ドイツで一番近いところはどこだろう? あぁでも、ママとパパを病院まで迎えに行く約束の時間になっちゃうね。 困ったな。長い時間、車の運転はできないな。 どうしようか。 きっと、待ちきれないパパからすぐに電話がかかってくるぞ。 そんなことを話しながら 私たちはバタバタと出かける準備をしていました。 この日は、義母の退院の日でした。 義母は少し前から口で流動食を食べることも難しくなり、 食事を直接、体へ流しこむ管をつける手術をしたのです。 よく晴れた気持ちのいい日で、 義母も外に出られてよかったなとボンヤリ思いました。 しばらくすると、案の定、 ダンナくんのケータイが鳴り始めました。 きっと絶対、パパだな。 ドイツ語で話しているから内容はわからないけど 義父の声が漏れ聞こえました。 やっぱり。 ダンナくんがケガをした事情を話して、 義兄弟か叔母さんに迎えに来てもらえるようにするか、 それともしばらく時間をつぶして待っていてもらえるようにするか、 どっちかしかないだろうな。……どっちになるんだろう? それにしても、ダンナくんのケガは大丈夫かしら。 車の運転なんてホントにできるのかな。 そんなことを考えながら私は仕度を続けていました。 電話を切ったダンナくんは 私にむかって言いました。 「ママが死にました。」 え? びっくりしたけど ダンナくんは日本語でそう言ったから、 そんな言い方だと比喩じゃなくて 本当に亡くなってしまった、って意味になっちゃうよ。 その言い方は間違ってるよ。 また変な日本語言ってる〜、と強引に思いつつ まさかとドキドキしながら ダンナくんが言った意味を確認しました。 「間違ってません。 ぼくのママは、死にました。」 改めてもう一度言われました。 「ど…、どうして!!!」 「ぼくもわかりません。病院に行きましょう。」 急いで病院に行くと、 義母は鑞人形のように静かに横たわっていました。 まただ。 昨年亡くした父と同じような、鑞の質感。 ママはこんな肌じゃなかったのに…。 「……元気だったのに!!」 思わず出た言葉。 ダンナくんに抱きついて、わんわん泣きました。 義母は歩くことも立つことも 枕を自分で直すことも、食事もできなくなって 自力での呼吸も怪しくなっていたけど それでも義母はいつも元気でした。生きていました。 また当然会えると思っていたから 入院前に普通にさよならしたのに、どうして!!なぜ!! 心臓麻痺でした。 義母は不治の難病で、 これから先は苦しくなる一方だったから、 ぽくっと、あんまり苦しまずに死ぬことができて 義母にとって良かったのかもしれません。 悲しすぎて、自分にそう言い聞かせるしかありません。 とにかく、 ダンナくんはケガのためすぐに手術となり、 しばらく入院することになりました。 ダンナくんが出張の時は 私と息子はオーストリアの家に避難するのが定番でしたが 今回は遠くから来る親族たちのために部屋が使われるので、そうもいかず、 ドイツの家で自力でサバイバル生活をすることになりました。 悲しむ間もなく、とにかく息子とふたりで留守を守って 生きていかなくてはいけません。 そう思っていても、急に涙が出て 止まらなくなります。 義母が本当に好きだった。 きっと義母は天国に召された。 泣く必要なんてないのよ、悲しいことじゃないのよ、って きっと義母は困った顔で微笑むに違いない。 わかってる。 心の準備も少しずつしていた。 何年もかけてお別れの準備ができたことは、 本人も皆にも、幸せなことだったと思う。 これが世界で一番不幸な出来事なわけじゃない。 訃報を聞いてすぐに車で駆けつけることまでできた。 近くで暮らすことができて、 義母の息子と孫がいる暮らしを日常にしてあげられた。 叔母さんたちや友人が毎日のようにお見舞いに来ていた。 きっと義母は幸せだった。 それでもただただ、今は泣きたい。 だっていつものあのリビングの椅子は空のままだ。 義母がどうだったかとかじゃなくて、 きっと、あの空席のことを泣いてるんだ。 実父の時の場合は 私が一人暮らしの期間も含めて長い間離れて暮らしていたから、 遠いところでまだ生きているような錯覚がありました。 でも一緒にいた義母が突然もう戻らないだなんて、耐えきれなくて、 昼間ときどき、ふいに涙をこぼしていると いつもユーマがハンカチを持ってきて、ほっぺたにキスをしてくれました。 笑顔でそっと横に立っているのを見て、 この子は義母の孫で、ダンナくんの息子だなと思いました。 ダンナくんの手術も成功したそうで、 来週には退院できるらしいです。 辛くても悲しくても 私たちは、生き抜いていきます。 |
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AuthorAlpenHausfrau Heidi ■免責事項 当サイトに掲載された記事情報及び意見や見解は、個人の感想レベルであり、その内容について何ら保証しません。情報の間違いなどに対して一切の責任を負いませんのでご了承下さい。 Archives
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